2013年1月11日金曜日

翻訳について考えたこと(1)

翻訳の話をしようと思います。

もう二ヶ月近く前のことになってしまいましたが、東京へ帰っていた間に、妹に誘われて「翻訳という怪物」というイベントに行きました。柴田元幸、ジェフリー・アングルス、管啓次郎という、翻訳の第一人者の方々のお話で、東京ではしょっちゅうこういう催しをやっているようですが、私は参加する機会などほとんどないこともあり、たいへん刺激的でした。とりわけ、三人がエミリー・ディキンスンの同じ詩を訳して比較討論したのはこの夜の白眉で、私は手元にコピーを持っているのでご紹介したい気もするのですが、この夜のことは『すばる』2月号に詳しく掲載されているとのことですので、そちらをぜひご覧くださいと言うに留めて、その夜、話を聞きながら私の心に浮かんだことをいくつか、特に自分のために書いておこうと思います。




「翻訳者は透明であるべきだ」という考え方について。柴田先生は、それがいかに難しくても「透明な翻訳は可能だ」と考えて仕事をしていると言い、それに対して管先生は、「翻訳自体が新たな創造である可能性」を対置させていました。

一見、対立するように見えるけれども、それは翻訳の二つの面であり、両立すると私は思いました。

これはもちろん「原文に忠実な翻訳をするか、訳者の恣意的で自由な介入を許すか」というのとは次元の異なる問題です。というか、次元の違う問題として私は受け取りました。

私は翻訳はクラシック音楽の演奏によく似ていると思います。こういう発想は、音楽家からはわりとよく聞きますが、言葉の専門家からはあまり聞くことがないように思います。言葉の専門家は「翻訳」というと「言い換え」「移転」の意味のある英語のtranslationをまず思い浮かべるからかもしれません。一方、音楽の「演奏」を意味するinterpretationという言葉は、同時に「解釈」という意味と「通訳」という意味をも持っているので、演奏家は自然に自分の仕事と「翻訳」に親近性を感じるのではないでしょうか。フランス語のtraductionはinterpretationとは意味は異なりますが、「別の形での現れ」という意味合いを持っています。

クラシックの演奏家は、自分の音楽を作るためにチラッと楽譜を参考にするわけではなくて、楽譜を読み込んで読み込んで、「これが作曲者の頭にあった音楽だ」というものを音にするのだと思います。「素晴らしい演奏でしたね」と言われても、「そこに全部書いてある通りです。私はそれを読んで伝えたに過ぎません」と言うでしょう。曲解しないことはもちろん、何も取り落とさず、余計なものを付け加えず、書かれた曲に肉薄して、それを自分の持てるあらゆる技術を駆使して音にすること。

それでも演奏家は自分の演奏が唯一絶対な演奏ではないことを知っています。あきらかに間違った「解釈」というものもありますが、間違っていない解釈で、異なる演奏があることを認めています。第一、たとえ理解した音楽が同じであったとしても、演奏者の肉体的な条件によっても、音色は変わってくるのではないでしょうか…

翻訳者もまた、原文を原語のなかで読み込み、できる限りその言葉やテクストの意味と効果を理解することから始めます。そして理解したものを、移し変えようとする別の言語のなかでできる限り再現しようとするのです。それが「透明であろうとする」努力だと思います。

もちろん、完璧な翻訳が不可能なことは誰でも知っています。

実際のレベルでは、私など自分を省みて思うのですが、語学力も不足して誤読をしたりもしますし、なかなか原文のすべての語彙の正確な重みを掴みきれていないと思います。表現する方の言語にしてもどうしても翻訳者個人の限界があります。現実にはこのあたりが翻訳の障碍のほとんどだと思いますが、柴田先生クラスになると、そういう障碍は最小限に抑えられる自信があるのではないでしょうか。

けれども、そういう翻訳者個人の限界をたとえ理想的に超えたとしても、今度は移し変えようとする言語自体の限界や不自由さがあって、これはどうにもなりません。それでおそらく柴田先生といえども「詩の翻訳は不可能」とおっしゃるのだろうと思いました。

そこで翻訳を原文に照らして「不完全な再現」と言ってしまえばそれで終わりです。でも、実際に翻訳に携わってみると、その経験から、別のものが立ち上がってくるような瞬間に出会うことがある、「新たな創造の可能性」というのは、おそらくそういうことを言っているのではないかと思いました。それは、本人自体が言葉の集積である翻訳者から、言葉が立ち上がってくる瞬間であり、また、原文の言語とは異質な言語の中に、新たなものが生れてくる瞬間です。実際に翻訳作業に携わっていて、私の場合、自分の書く日本語に、いつもそれを感じられるわけではありませんが、そういうスリリングな感覚というものが、あるということがなんとなく分かるような気がします。

しかしいずれにしても、とてもレベルの高い話で、私などはできる限り、語学の勉強に励むところが現実的な目標です。

他にもいろいろ考えたことがあったのですが、すでに長くなったので今日はこれで終わりにします。

1 件のコメント:

  1. さおりさん、こんばんは。わたしもこの催しの感想をブログで書きました。11月末に書いたのをほとんど忘れかけていたのを、いまごろアップしたのですが、さおりさんの投稿に刺激されたみたいです/笑。リンクを貼らせていただきましたので、どうぞよろしく!

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